俺しか持っていないもの あなたにしかできないこと
それはマズイだろう
でも
俺が困ることではないし
俺の身体じゃないし
俺が背負う問題じゃないし
どうでもいいか
と感じることがある
今日も何かの出来事にそう思うことがあった
それでいいのか?とも思ったが、これが自分の真なる思いに気がつくための口癖かもしれないと思った
嫌われる勇気の中で語られていたアドラーの課題の分離という考えもこういうことなのかもしれないとも思った
偏食でもいい
運動しないでいてもいい
無職でもいい
ワーカホリックでもいい
アルコール依存でもいい
その結果はその人自身にしか引き受けいれられないし、援助はあれども解決できるのもその人自身しかいない
俺は誰かの道具じゃないしペットでもない
誰かの考えを受けたり影響を受けたりすることはあっても別の存在には変わらない
母胎から堕ちたときから誰かと一緒になることはできない個であり孤である
同じ絶景を見て同じ綺麗と感じてそう発していたとしても違うフィルタで見ている以上多かれ少なかれ違う世界を見て違うものを感じている
共感には限界がある
全く同じものを見聞き感じることはできない
想像上の物語ではよく行われていて、誰かと同じ思いを感じ合うことはできると信じている人もいるだろうが、それは作者の思い描く一つの世界の中だからできることにすぎないのだ
なにより私がそんな人間である
だからその事実に悲しくなる
だが、そんな誰とも共有できないであろう世界を感じられる人がいる
それは自分自身だ
私の世界は私だけのものである
あなたの世界はあなただけのものである
他人から認めてもらう、共感してもらうというのは非常に困難なことをしようとしていることに気がつくだろう
感じられないことを感じるのは不可能であろう
わかる、それな、は私にとって余計に孤独を感じさせる言葉だとも感じることがある
だから、自分だけが感じられることは自分が大切にするしかできないし、それを他人に委ねると自分が感じたことが余計に目に触れられないひとりぼっちなものになってしまうことになる
では、他人の喜びや苦しみは自分には用無しなのだろうか
きっとそうではない
共感できなくてもできること、それは理解しようとただただ聴く姿勢を示すことだ
傾聴とも言える
自分の解釈をなるべく減らすことを意識しながら相手の言葉に耳を傾ける
そこに同調の言葉はいらない
そうなんだ、そうなんだね、それってどういうことなの?
相槌を打ち、わからないことを尋ねる
理解することではなく理解しようとする姿勢が大切なのだ
理解してくれないと不満を嘆くのはお門違いである
他人ができるのは理解しようとすることだけで自分自身が理解と共感をしてやるのだ
そして余裕があるときには同じ困難を抱える者に寄り添ってやるのだ
その輪が広がっていけば孤独感は耐えきれるものになっていくだろう