悲しみから与えられる生きている実感と安らぎの味
あなたは伊達マスクという言葉を知っているだろうか?
私のブログに来る人は知ってそうな気がする(偏見)
伊達マスクとは衛生上の理由以外の目的でマスクをすることである
マスクの本来の使用目的(?)は外部からのウイルスが口や鼻から入ってこないようにするものであるが、伊達マスクをつける目的は違う
私の場合は安心感を感じられる、劣等感を感じる顔を隠すことで対外的な自信を得られるような錯覚を感じられる、表情を隠すことができるなどの理由でつけることがある
大学生のころは特に顔に対する劣等感があったからその目的でマスクをつけることがあった(でも耳が痛くなるしPC眼鏡をよく使っていたからそこまで高頻度ではなかったけど)
こんな記事を書いている今日、私は伊達マスクをして職場へ向かった
理由は仕事が億劫でそれが顔に出てしまいそうだったから、昨日ささいなことだがダメ出しをされた時の恐怖がぬぐい切れておらず精神的な防護壁が欲しかったから
顔のコンプレックスはもう感じすぎて飽きた
顔の劣等感に向き合っても無味乾燥とした無の存在と化してる気がする
最近は顔そのものを隠したいマスクではなく私の心の中にある精神世界を外敵から守るためのマスクになっている
鈍感で自信に満ち溢れている人間にはマスクは伊達マスクをする人の心なんてわからないだろう
今日の私の悲しみは私一人で味わってやる
誰にも渡さない、誰にもわかるなんて言わせない、気軽に同調するな