本音を偽る苦しみ、本音に向き合う恐怖
さっきの記事を書いた後考えたこと、それは
言葉よりも態度(行動)に本音が現れる
ということだ
これはよく言われることであるであろうが、それを痛感させられた
スマートフォンの画面に視線を集中していながら「あなたの話を聞いています」と言われても納得できないし自分が大切にされていないように感じるというのは理解してもらえることだろう
私はまさにそんなことをしてしまったのだ
これは生活すべてにおいて当てはまる
友達、恋人が欲しいと言いながら人との交流を避け続けるのは、それ以上に「他者から嫌われたくない、人との交流が億劫だ」と言った本音が胸の奥底にあるからだ
もちろんその友達が欲しいという気持ちは0%ではないだろう
だが、友達が欲しい以上に人との交流が億劫であるのは恐らく間違いない
雇われの状態から抜け出したいと言いながらそれに向けた活動をしないのは「どうせ無理だ」という諦めやなんだかんだ雇われの働き方のメリットを享受していたいという気持ちがあるのかもしれない
だが、私は自分を変えたければ無理してでも行動を変えろなどという説教をするつもりはない
むしろ、その心の奥底にある本音に耳を傾けることを推奨したい
上記に例を上げたことは私が感じていることだ
私は人付き合いに億劫さを感じるのだ
私はフリーな働き方ではやっていけないと諦めているのだ
こうやって本音を知ることができるとそれだけで少し心が満たされる
そして、その本音からの人生方針を考えることができるようになる
私は人付き合いが面倒くさいんだな
多分他者から嫌われたくないとかどうせ好かれないとか思ってるんだな
でも、そうやって人付き合いを避けてても仲の良い関係なんて築けないよな
じゃあどうする?
ってな感じ
最初の自分の本音に耳を傾けることをしないと「人付き合いを避けてても仲の良い関係なんて築けない」→「面倒でも人と関わるべきだ」のように単純なすべき思考に辿り着いてしまう恐れがある
本音を無視したすべき思考は反抗を生み出しやすいしすべき思考を動機とした行動は長続きしにくい
だから、同じ「人付き合いを避けてても仲の良い関係なんて築けない」というところに辿り着くにしても自分の素直な気持ちを知ることは重要なのだ
もちろん、そんな結論に辿り着いたからといって「やっぱり嫌われたくない」という思いが強ければ無理に人との交流に積極的なろうとする必要はないだろう
そうなってしまっては本音を無視したすべき思考と同じになってしまう
嫌われたくないという気持ちはあってもそれ以上に親密な関係を築きたいという思いが勝っていれば今までのやりなれた人との向き合い方を改めようとしてみるといいのだろう
それはちょっと頑張りが必要だ
それはちょっと面倒だ
その頑張りは報われないかもしれない
それでも頑張った方がいいのだろう
自分が変われば否が応でも人生は変わるはずだ
多分永遠に変化しないではいられない
変化しないでいたいと思っても何かしらのものから変化を強いられることになるだろう
どうせ変わるなら自分の意思で変わる方が悔いは残らないし納得しやすい
…話がとっ散らかってきた
とりあえず言いたいことは「自分の本音を聞こう」ということだ
変わる変わらないというところは自分に言い聞かせたいという意味合いが強いから聞き流してもらって構わない
そして、本音を知るなら自分の行動、自由な時間の過ごし方、物事に対する向き合い方を見つめてみるとわかりやすいだろうということだ
言いたいことを吐き出せたし考えがなんとなくまとまったような感じがして満足。眠い。寝る。