開かれてるようで閉ざされた交流
数時間前にこんな記事を書いた
そして寂しい寂しいと悲しみを感じた
こうやって自分の本心に気が付いて悲しめるのは悪くない
むしろそれに気が付けたのはプラスだ
本心に耳を傾けてその感情を感じることはそれが負の感情と呼ばれるものであっても私が大切にしていることだ
特に交流分析という理論の中で真の感情と言われている「喜び」「悲しみ」「恐怖」「怒り」の4つは大切だと思っている
(それぞれの感情に大切な役割がある、興味があれば調べてみて欲しい)
だが、この手の寂しさは単純だが当たり前になっていることが原因であると思われる
そうわかっている以上手を打つ必要があると感じた
それは「現実の場での交流がない」ということだ
厳密に言えば職場の人との交流はある
おしゃべり好きなおばちゃんもいるしその人との雑談を楽しんでいるのは間違いない
家族との毎朝の挨拶やちょっとした会話もある
だが、付き合う人がかなり限られている
話題は似通るし仕事の付き合いである以上伸び伸びと会話ができない
個人的な音楽の好みを語っても面白くないし世代の違いゆえに共感されることを期待できないこともある
だからこのブログやTwitterでは現実の場では語れないことを表現している
それで満たされたり救われたり孤独感から解放されたりすることがある
手軽な発信ツールであり日常で交流するなら多くのコストがかかりそうな人とも交流することができるのは非常に便利だ
そしてその手軽さ故に簡単につながりが消えてしまう性質をも抱えている
簡単に得られるものを大切にしようとは思いにくい
文字を使った表現は好きだが文字だけでは表現できないことはあるし、何より人の温もりは多かれ少なかれ削がれる
便利だが薄いIT交流と不便だが良くも悪くも濃いリアル交流とについて書いたきたが、元々私が言いたかったことと違う方向に向かってるから方向転換
ずばり今IT交流ばかりの生活を送っているのはそれぞれの長所短所を無意識に天秤にかけてIT交流が望ましいと思っているからなんだろうという気づきがあったことをまとめたかったのだ
リアル交流を絶賛するつもりで書き始めた記事ではない
勢いで書き始めたが結果的に両方の交流の仕方に特徴があること、今の自分の現状を知ること、そして今後どうするのがいいのかを考える場になりそうでよかった
現状のままでは孤独感を拭えないだろう
手間がかかり面倒であり面白くなくても現実の場での交流の幅を広げることは現状打破につながるんだと思う
こういう「愛のある」(ここ非常に重要)鞭を打てる男性性というか父性というかエゴグラムでいうCPの部分を伸ばしたい
厳しさと共に思いやりと励ましを持てる人間を目指したい
辛い時は素直に今のような一人で過ごす時間やIT交流に甘えればいい
人付き合いがあまり苦にならないどころかそれが栄養になるような外向性の高い人には敵わないけど知恵と勇気だ!メダロット
…内向性について学んできた知恵となけなしの勇気を奮って頑張っていこう
きっとその頑張りに報いがあると信じて