良いタイトルを考えるの面倒くさい
学生時代「面倒くさいってなんだろう」と考えたことがある
その時にたどり着いた結論は「やれば報酬が期待できるけど、報酬なしではやりたいとは思えないこと」というものだ
これは学生時代の講義の課題、授業を受けること、そしてそもそも大学まで足を運ぶことをすることの意義に疑問を感じたときに考えたくなったことだ
外的報酬、内的報酬という言葉をご存知の方に伝えるのであれば「内的報酬がなく外的報酬しかないこと」であろうか
このエピソードを語ったところで結構気持ちが満たされたのだがこんなことを記事にしようと思った理由は今の生活に飽き飽きしているけど、変化しようとするのも「面倒だな」と感じているからだ
そしてその「面倒くさい」に打ち勝ちたいと思い文字に起こすことにしたのだ
数年前にした面倒くさいの定義だが、的はずれなものではないと思っている
今でも面倒くさいなと思う時にその定義を当てはめてみるとそうかもしれないなと納得することができる
今私が面倒くさいと思っていることは新たな友好関係の構築だ
異性はもちろん同性の人とも仲良くなれたらいいなと思っている
だが、無意識に過剰な気遣いをしてしまうのか新しい人と交流するというのは非常にエネルギーを使うのが億劫に感じられる
傷つくことを恐れて声をかけられるのを待つだけ、当たり障りのない表現をするだけで終わってしまう
そんなもんだから人との出会いがただただエネルギーをたくさん消費して自信を失っていくだけのものになってしまっている
じゃあそれに留まらないでもっと踏み込めばいいじゃん、と書いてて思えたのだがうまくいった前例が少なく、自分を明かして場を白けさせたり笑われたりするのは嫌だという思いがあるのを否定できない
だから面倒くさいのだ
そんなわけで人との交流というと今まで親しくしてきた友人と職場の人たち
別にそれだけでも悪いとは思わないが話題が似たようなものになってしまう
親友との交流は安心感をもたらしてくれるが発見、面白さ、新鮮味には欠ける
そしてこれが一番なんだが女性とあんなことやこんなことがしたい
自分のしたいことって何だろうと考えると真っ先に頭によぎることなのだ
これは余所見できない
余所見し続けたらいつまで経っても心のどこかに不満を抱えることになる
だからと言って直接金を提供してその機会を得てもしょうがない
あれは金に対する尊敬で私という人間に対する尊敬は全くないからね
面倒くさいと感じることはやりなれていないことであり、その先には新しさ、面白さ、発見、成長の可能性がある
そして、面倒くさいの先にこそ成功(性行)があるのだ