常識を疑えと言われても
ふと「これって俺の価値観か?」と感じた
上司から自分の業務に対して指摘を受けた時、上司の意見こそが正しい、それに従わないといけない
それに対して自分のやったことは間違いで改めないといけない
というような自動思考が行われた
でも本当にそんなこと思ってる?と疑う自分がいたりうわぁそんな細かいところまで気にすんのか…と気持ち悪さを感じる自分がいたりした
「失敗するのが怖い」んじゃなくて「失敗(とされることを)すると怒られると思い込んでるから怒られたくない」
もっと言えば「怒られるのが怖い」んじゃなくて「怒られたときに自分を責めるような自動思考が嫌なだけだ」
ってことを再度思わされた
この一連の思考の流れは失敗(とされること)をしたときに周りの人が怒らない経験をする
あるいは怒られたときに自分を責めないように気をつけることで変わっていくのかなと思った
話が脱線した
冒頭の体験をして自分の価値観かどうか疑わしい価値観に従って生きているなと感じた時ひどく悲しくなった
これじゃ自分を見失って当然じゃないかと思った
そして今までの人生、ほぼそんな感じでよく生きてこられたなと自分を労いたくなった
我が国は自殺する人がたくさんいるが、他人の価値観に従って自分の価値観を押し殺して生きている人もそれに等しいのではないかと思った
うつ病と呼ばれる状態はそれに大きく蝕まれた状態
その先の自殺という自分の価値観の死から本当に自分を死に追いやってしまうまでに至るのは悲劇的だなとも思った
自分の中の常識というのはどれだけ理にかなっていないものでも反論や否定というような他者からの目線がないとその非合理性に気がつきにくいという非常に厄介な性質を持っている
そもそも非合理な常識を植え付けるのも自分以外の他者というのが質が悪い
だから、みんなも気をつけてね