「意識高い」とバカにできないこと
今日は本を読みながら考え事をする一日であった
それ以外のこともしてたけど
最近、生き方についてよく悩む
自分のため以上に他者のために行動する方が幸福度が高いのではないか
休日および自由な時間を資本主義が産み出す生産を自分の欲だとみなして消費するばかりでいいのか
動画サイトやTwitter、目的のないウェブブラウジングに無意識に手を伸ばすのではなく自分を高めることに時間を費やした方がいいのではないか
といった具合である
こうやって文章に起こしてみるとやはり上記したようなことはその通りなのだろうと思える
だが、思春期くらいから約10年ほど親しんできた習慣や価値観というのはそれが自然な動きであるのだろうなとも言える
それでも、小さな一歩でも歩み続けて変わっていく必要があるのだろう
そうでなくても現状維持というのは不可能なのだろうから
今日読んだ本は私のバイブルこと「いやな気分よ さようなら」(デビッド・D・バーンズ)
「自分の中に毒を持て」(岡本太郎)、「こころのウィルス」(ドナルド・ロフランド)、「嫌われる勇気」(岸見一郎)、「愛するということ」(エーリッヒ・フロム)
の5冊だ
どれもじっくり読んだわけではないが、過去にじっくり読んだ本はざっと目を通すだけでもその本を読んで感じたことを思い出せるのだと感じる
今回読んだ本の中で一番印象に残っているのは愛するということ、その次が嫌われる勇気だ
愛するということの中で印象に残っていることは「人を愛するにはナルシズムから脱している必要がある」(完全に主観を抜け出すことはできないにしてもある程度脱している必要がある)
「愛する技術を身に付けるには子供が歩くことを身に付ける時のような集中、忍耐、規律、関心が欠かせないということ」
(規律は自分で自分に課すことが大切とのこと)
自分でまとめたものであり、この通りに書かれているわけではないことを補足しておきたい
嫌われる勇気からは「他者貢献とは自己犠牲や偽善ではない」(自分が居場所を感じられるためにするのが他者貢献であり自分を他人の奴隷にすることではない、他者を敵だとみなすから偽善だと感じられる)
の記述が印象に残っている
まだまだあるのだが私の中で文章化しようという気力がないためこれくらいに留める
つまりは今までの価値観のままでは今までと同じ生活を送ることになり今までと同じ幸福感を得られるまでに留まるということなのだろうと感じている
今の生活は大きな不満もないが決して大きく満たされているわけでもなく人生に空虚さを感じることもある
今までの生活を変えたいか変えたくないか、全ては私にかかっているのだろう
余談だが、今回の記事は他のことをしながらの「ながら記述」ではなくこれに集中して書いた
愛するということの中に書かれていた集中力ということに関して私なりの取り組みだ
普段なら隣で音楽を流したり動画を流したりしているのだが、集中力を高めるために封印した
こういう小さな取り組みが後に大きな変化となって現れてくれると嬉しいのだが果たしてどうなることやら